2012年11月24日
「いけいけぼくらのVガンダム」復活!
Vガンダムファンの間ではいろんな意味で伝説的な本であったことぶきつかさ先生の「いけ!いけ!ぼくらのVガンダム!!」。長らくの間廃盤となっておりましたが、この度、角川書店から復刻されることになりましたので購入してまいりました。
以前の物は一度見せて頂いた事があったんですが、同人誌的な荒さがVガンダムのカオスな感じと上手くリンクしてパロディとしての面白さが出ていたと感じました。
しかしこの当時のことぶき先生の作風は師匠である園田健一先生とよく似ています。
「ファースト」と「0083」の間をつなぐアナベル・ガトーの物語。「間をつなぐ」という点でガンダムエースのArk Performance先生ぽい作品。この単行本の中では珍しく重厚なお話。
アッガイをメインキャラにしちゃったのはパロディとは言え同じくガンダムエースの曽野由大先生の先駆け?
この本を象徴する言葉として「カテ公」というのがあります。Vガンダムのカテジナ・ルースを揶揄した言葉なのですが…。
「ガンダム」という物語は神話のように語り継がれ、これから何世代に渡って見る物になると思います。その中の「Vガンダム」も新世代のファンが新たに見ることになると思うのですが、「カテ公」という言葉が一人歩きして物語の本質のねじ曲げてしまうのではないかと心配してしまうのです。カテジナは父親にも母親にも見放され、身を寄せたリガミリティア(主人公ウッソ達の勢力)は故郷ウーイッグをおとりに使う等信用できない存在で、ザンスカール帝国とクロノクルに救いを求めたのも仕方がなかった訳です。ここら辺のカテジナの心情を上手く表現できなかった(深く読んでようやく理解できるようにしてしまった)製作サイドの責任もあるのですが、「カテジナ=悪」という先入観を持って「Vガンダム」を見てしまうと富野さんの描きたかった事が見えなくなってしまうと思うのです。
ことぶき先生のフォローをすると「カテ公」というのは誰もが覚えやすいキャッチーな言葉で発明と言っても過言ではないと思います。「Vガンダム」のパロディとして何ら恥じる事はありません。ただ憂慮しているのはパロディでしかない「カテ公」が大本の物語を上書きしかねないほど影響力を持ってしまった事なんです。見る側が「カテジナ=悪」と決めて見るのはたしかに解りやすいのでしょうが、それはある意味考えることから逃げてしまっているのではないでしょうか?
もう一つパロディがらみで憂慮している例をあげると「シャアはロリコン」であるというのがあります。これはシャアがララァ・スンと交際していた事から来ているのですが、ファーストガンダムだけを見るとそう取られても仕方のない所があります。しかし「Zガンダム」でのレコア、「逆襲のシャア」のナナイを見るとロリコンのそしりを受けるのような関係ではないのです。「逆襲のシャア」のクエス・パラヤとの関係も終盤で地球に落下するアクシズでアムロとシャアの会話をきちんと読めばシャアにおいてのクエスは優秀な兵士でしか無く、恋愛対象どころか父親代わりにもなろうとしなかった事が解ります。さらにここでシャアは「ララァが母」であったと告白します。つまりシャアはむしろマザコンで、その対象がたまたま年下の女性であったと考える事が妥当なのです(これはこれでゆがんでいますが)。
「シャアはロリコン」という構図は非常に解りやすくネタとして使いやすいためガンダム芸人さんやガンダム漫画家さんがパロディとしての二時創作で使う分には全然OKだと思います。ただ、たかだかパロディの産物をガンダムの物語と同列に並べるのはどう考えてもおかしいと思うのです。
もしかすると僕の解釈不足でもしかするとカテジナは悪かもしれないし、シャアはロリコンかもしれません。しかしせめて余計な先入観は捨ててニュートラルに見て欲しいと、これからのファンには対しては切に願うのです。賢い受け手であってください。
以前の物は一度見せて頂いた事があったんですが、同人誌的な荒さがVガンダムのカオスな感じと上手くリンクしてパロディとしての面白さが出ていたと感じました。
しかしこの当時のことぶき先生の作風は師匠である園田健一先生とよく似ています。
「ファースト」と「0083」の間をつなぐアナベル・ガトーの物語。「間をつなぐ」という点でガンダムエースのArk Performance先生ぽい作品。この単行本の中では珍しく重厚なお話。
アッガイをメインキャラにしちゃったのはパロディとは言え同じくガンダムエースの曽野由大先生の先駆け?
この本を象徴する言葉として「カテ公」というのがあります。Vガンダムのカテジナ・ルースを揶揄した言葉なのですが…。
「ガンダム」という物語は神話のように語り継がれ、これから何世代に渡って見る物になると思います。その中の「Vガンダム」も新世代のファンが新たに見ることになると思うのですが、「カテ公」という言葉が一人歩きして物語の本質のねじ曲げてしまうのではないかと心配してしまうのです。カテジナは父親にも母親にも見放され、身を寄せたリガミリティア(主人公ウッソ達の勢力)は故郷ウーイッグをおとりに使う等信用できない存在で、ザンスカール帝国とクロノクルに救いを求めたのも仕方がなかった訳です。ここら辺のカテジナの心情を上手く表現できなかった(深く読んでようやく理解できるようにしてしまった)製作サイドの責任もあるのですが、「カテジナ=悪」という先入観を持って「Vガンダム」を見てしまうと富野さんの描きたかった事が見えなくなってしまうと思うのです。
ことぶき先生のフォローをすると「カテ公」というのは誰もが覚えやすいキャッチーな言葉で発明と言っても過言ではないと思います。「Vガンダム」のパロディとして何ら恥じる事はありません。ただ憂慮しているのはパロディでしかない「カテ公」が大本の物語を上書きしかねないほど影響力を持ってしまった事なんです。見る側が「カテジナ=悪」と決めて見るのはたしかに解りやすいのでしょうが、それはある意味考えることから逃げてしまっているのではないでしょうか?
もう一つパロディがらみで憂慮している例をあげると「シャアはロリコン」であるというのがあります。これはシャアがララァ・スンと交際していた事から来ているのですが、ファーストガンダムだけを見るとそう取られても仕方のない所があります。しかし「Zガンダム」でのレコア、「逆襲のシャア」のナナイを見るとロリコンのそしりを受けるのような関係ではないのです。「逆襲のシャア」のクエス・パラヤとの関係も終盤で地球に落下するアクシズでアムロとシャアの会話をきちんと読めばシャアにおいてのクエスは優秀な兵士でしか無く、恋愛対象どころか父親代わりにもなろうとしなかった事が解ります。さらにここでシャアは「ララァが母」であったと告白します。つまりシャアはむしろマザコンで、その対象がたまたま年下の女性であったと考える事が妥当なのです(これはこれでゆがんでいますが)。
「シャアはロリコン」という構図は非常に解りやすくネタとして使いやすいためガンダム芸人さんやガンダム漫画家さんがパロディとしての二時創作で使う分には全然OKだと思います。ただ、たかだかパロディの産物をガンダムの物語と同列に並べるのはどう考えてもおかしいと思うのです。
もしかすると僕の解釈不足でもしかするとカテジナは悪かもしれないし、シャアはロリコンかもしれません。しかしせめて余計な先入観は捨ててニュートラルに見て欲しいと、これからのファンには対しては切に願うのです。賢い受け手であってください。
Posted by 天野"kevin"達也 at 00:14│Comments(0)
│Vガンダム
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