2011年02月21日
F91とVガンダムとターンAと
日曜日に行われた大阪ガンダム学会は過去最高のお客さんに来ていただきました。ありがとうございます。初めて学会に来られた方、Vガンダムはほぼ初めてという方もいらっしゃったのですが、なにせ扱うテーマがテーマなので(苦笑)ちょっと解りにくい点があったかもしれません。それでも新しい視点からの意見は学会常連メンバー達にとっても貴重な物ですのでこれに懲りずに来て頂けると幸いです。
ところで学会内でF91やターンAに関しても触れられた事からふと思ったことを書きます。
今年で上映20周年となるF91は熱心なガンダムファンなら有名な話ですが元々テレビシリーズとして企画された物でした。それが諸般の事情で物語の前半部分だけが映画作品となりました。しかしテレビシリーズの1/3と仮に考えても膨大な情報量になります。膨大な情報量を押し込んだ結果、観客側には不親切な内容となってしまいました。
ただ改めて見ていくと少年少女達の冒険・成長物語である事が共通している点から「90年代のファーストガンダム」を新たにやろうとした様子が見えます。もちろん富野総監督としては「ガンダムはアムロ&シャアサーガが終結した『逆襲のシャア』で終わり。ガンダムに縛られない新たな作品を作りたい。」という思いもあったでしょうが、一応は「ガンダムを肯定」した作品作りをしたんじゃないでしょうか。
一方Vガンダムは製作過程において富野総監督のハッピーとは言えない精神状態が反映されてしまったのか、「ガンダムを否定」する作品になってしまいました。連邦軍が形骸化され主人公達が所属するのがゲリラ組織、ガンダムという名前を極力使わずヴィクトリーといった呼び方をさせる、ニュータイプという概念は存続する物のシリーズ最後にはサイキッカーという呼び方に変わる等々。ガンダムという作品でありながらまるで別の作品のようでもあります。

ターンAはアメリカ19世紀末を想像させる舞台でファーストガンダムを起源としたデザインの殻を大きく破ったモビルスーツ達が登場する「ガンダムを否定」した面がある一方で、ザクIIといったモビルスーツや戦艦達を再登場させ、宇宙世紀の遙か先の未来という「ガンダムを肯定」する面もあるんですよね。

で、ふと思った結論が「こうして考えると『逆襲のシャア』以降の富野総監督のガンダム三作品は三者三様のトライの仕方をしていて面白いなぁ。」というただそれだけの事なんですけどね(スマーン、ハマーン)。でも、こうして考えるともしかしたら富野さんはターンAの時が一番ニュートラルな状態で製作に望めたんじゃないのか、とも思ったりするのです。
ところで学会内でF91やターンAに関しても触れられた事からふと思ったことを書きます。
今年で上映20周年となるF91は熱心なガンダムファンなら有名な話ですが元々テレビシリーズとして企画された物でした。それが諸般の事情で物語の前半部分だけが映画作品となりました。しかしテレビシリーズの1/3と仮に考えても膨大な情報量になります。膨大な情報量を押し込んだ結果、観客側には不親切な内容となってしまいました。
ただ改めて見ていくと少年少女達の冒険・成長物語である事が共通している点から「90年代のファーストガンダム」を新たにやろうとした様子が見えます。もちろん富野総監督としては「ガンダムはアムロ&シャアサーガが終結した『逆襲のシャア』で終わり。ガンダムに縛られない新たな作品を作りたい。」という思いもあったでしょうが、一応は「ガンダムを肯定」した作品作りをしたんじゃないでしょうか。
一方Vガンダムは製作過程において富野総監督のハッピーとは言えない精神状態が反映されてしまったのか、「ガンダムを否定」する作品になってしまいました。連邦軍が形骸化され主人公達が所属するのがゲリラ組織、ガンダムという名前を極力使わずヴィクトリーといった呼び方をさせる、ニュータイプという概念は存続する物のシリーズ最後にはサイキッカーという呼び方に変わる等々。ガンダムという作品でありながらまるで別の作品のようでもあります。
ターンAはアメリカ19世紀末を想像させる舞台でファーストガンダムを起源としたデザインの殻を大きく破ったモビルスーツ達が登場する「ガンダムを否定」した面がある一方で、ザクIIといったモビルスーツや戦艦達を再登場させ、宇宙世紀の遙か先の未来という「ガンダムを肯定」する面もあるんですよね。
で、ふと思った結論が「こうして考えると『逆襲のシャア』以降の富野総監督のガンダム三作品は三者三様のトライの仕方をしていて面白いなぁ。」というただそれだけの事なんですけどね(スマーン、ハマーン)。でも、こうして考えるともしかしたら富野さんはターンAの時が一番ニュートラルな状態で製作に望めたんじゃないのか、とも思ったりするのです。